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名古屋高等裁判所金沢支部 昭和54年(ネ)45号 判決 1981年2月18日

控訴人 五藤卓雄 ほか五名

被控訴人 国

代理人 西川賢二 木澤慎司 澤田成雄 吉田郁頴 ほか四名

主文

本件控訴をいずれも棄却する。

控訴費用は控訴人らの負担とする。

事実

控訴人ら代理人らは、「1原判決を取消す。2被控訴人は、控訴人らに対し、それぞれ金五一万二〇〇〇円及びこれに対する昭和四七年一月一一日から支払ずみまで年五分の割合による金員を支払え。3訴訟費用は、第一、二審とも被控訴人の負担とする。」との判決を求め、被控訴代理人らは、主文同旨の判決を求めた。

当事者双方の主張及び証拠関係は、次のとおり附加するほか、原判決事実摘示のとおりであるからこれを引用する(但し、原判決書五枚目表二行目中「同庁」とあるのを「金沢地方裁判所」と、一五枚目裏九行目に「支払まで」とあるのを「支払済まで」と訂正する。)。

(控訴人らの主張)

一  本試験を受ける権利の侵害

1  原判決は、昭和四四年一二月二三日に実施が予定されていた昭和四四年度法医学試験に対して控訴人らが試験期日前である昭和四四年一二月一〇日に取消願を提出している点につき、この取消願の効果を何ら認めない。しかしこの取消願は、大学側に於て用紙まで用意して制度として認めたものであり、その上に、担当教官井上の承認印まで押捺されていたのであるから、これを単に申請撤回の意思を了知したという趣旨にすぎない押印として理解したにしても、申請撤回の制度である取消願の効果全体を否定することは、全くの誤りといわざるをえない。

2  原判決は、当時の学四の学生全体につき、昭和四四年一二月二三日の試験期日に欠席したため内規の定めによつてそのころ受験申請権を喪失したとする。この点も甚だしい誤りである。

(1) まず当時昭和四四年一二月二三日に試験が実施されるということは何人の念頭にも存在しなかつたことである。担当教官井上においてさえ、試験の準備を何ら行つていなかつたことからみても、この日に試験を予定されていたとする認定は全く無意味である。また大学関係者においても試験場の準備は全く行つていないし、その予定があつたとの認識を持つ者さえいなかつたのである。この点はすべての関係者が前記取消願の効果を認めて、その撤回があつたことを前提にしていたからに他ならないのである。この点を全く無視して「欠席」という事実認定をした原判決はきわめて不当である。

(2) 原判決は、右「欠席」の結果、当時の学四全体が、「再試験を待つか、さもなければ次年度の法医学講義を受講し、その本試験を受けるしかなかつた」とするが、この点も誤りである。当時大学側は学生に「昭和四四年度の本試験」実施を前提にして説明していたことは前述の通りであり、もし原判決のとおりなら、大学側の説明は、間違つた事実を説明した違法・不当な態度とされることになるが、誰も大学側の説明を誤りとした者はいないのである。まして次年度の再受講など、どこからも説明されたことはない。

このことはその後の大学側の取扱をみれば明らかである。再試験かどうかは別として、大学側は学生に対して、あくまでも担当教官の承認印のある受験申請書を提出するよう要求したにとどまり、本試験の受験資格のないこと、次年度の再受講を示唆することは一回もなかつたことを考え合わせれば大学側の取扱は決して次年度再受講を予定したものではないことが明らかである。

(3) とりわけここで強調しておきたいことは、金沢大学医学部の科目試験が個人申請制度だつたという点である。被控訴人の主張は、「科目試験の体系」といい、又「本試験は、本来担当教官がその実施を決定した上受験資格のある者について統一的に実施するものである」といつて、この個人申請制度を根本から否定する主張を行つているが、この点は全く事実に反するものである。個人申請制度であることからくる結果として、ある科目の試験の機会が学年末に与えられたとしても、その学年の試験の申請を出さずに、申請権は留保しておき、別の機会に実施を求めることも、たてまえとしては認められていたのであり、この取消願も、そのような制度の一つとして位置づけられたことは当時の大学側の取扱の態度からみてきわめて合理的に理解しうるのであつて、被控訴人の主張するような非難は当らないものである。

二  再試験を実施しない違法

1  受験妨害があるとの前提について

控訴人ら各個人において当時試験妨害といえる程度に行動したかどうかの点では、これは明らかに否定的であり、これまでの証拠を以てしても、控訴人らの試験妨害があつたと認定しえないことは明らかである。

特に控訴人らが井上教官の部屋へ入つた状況については、乱入、侵入と表現できるような行動は全くなかつた。右部屋へ入つたのは控訴人ら学四の学生のみであつて、卒業期を控えずにいる学三の学生たちとは明らかに区別しうる者であつて、当時の井上教官もこの事情を了として教授室で話し合おうとして招じ入れたことは証拠上からも明らかである。その後、教授室前の廊下に坐り込んだということも、事態の推移を見守るという平穏な行動であつただけに、右のような理性ある行動をとつた控訴人ら学生に、試験妨害と云う評価が当らないことは当然である。

なお、室内にいた学生の心理状態をもつてパニツクとしたり、口頭試験への切りかえがあつたりした事実は、控訴人らの行動の直接的な影響によるものでないことは当然であり、この点も責に帰すべきではない。

2  文書送付について

まず本件の除名は、学生間のことであり、このような学生のクラス内部の問題に大学側特に法医学という一科目の担当教官にすぎない井上教官がこれを取り上げて問題にすること自体不当であることは明らかである。この点の大学側の立場に立つ指導を問題にするなら双方の学生のいい分を平等の立場で聞き、かつ話し合いによつて解決する場を作つてこそ、学生の生活指導に立ち至つたあるべき姿であるのに、この点については何ら手をこまねいて傍観しておきながら、一方の学生の立場に立つて除名決議を問題にするのは、決して大学としてのあるべき姿でないことは当然である。

次にこのような除名決議の文書送付によつては、いわゆる受験派と称された卒業組の名誉が著るしく傷つけられたことにはならないという点も配慮すべきである。学生時代のクラスにおいて除名決議されたこと自体では、その者の卒業後の社会的地位の低下に直接的に結びつくことにはならないし、当時の学生ストとその背景からみるとき、学生ストに反対して卒業したという事実はそれなりに一定の評価を受けたことは推測に難くないから、除名決議そのものの効果・結果はさほど問題にするに当らないものであり、少くとも大学における懲戒事由には当らないことは、誰もが納得しうる結論である。

除名決議に反対した者が、その除名決議の責任を負うものではないことは当然すぎるほど明らかであるのに、被控訴人は、学生ストで決議されたことは従うべきであると主張するからには、除名決議について反対してもその責を負うべきであるという奇妙な論理を用いて反論する。この点については、全く別の次元の議論であつて被控訴人の主張は何ら理由がない。学生ストの拘束力を認めようとするのは、学生の連帯を考える控訴人らの行動としての規範であるが、除名決議に反対の者に責任を認めようとするのは、懲戒又はそれに類する責任追及の問題であり、このような問題に連帯責任ということはありえないのは当然である。

3  良心の自由に対する侵害について

憲法一九条に規定する思想及び良心の自由とは、内心におけるものの見方、考え方の自由(内心の自由)を保障すると共に、この内心の自由に対する侵害を防ぐために、自己の思想及び良心についてこれを沈黙する自由、思想及び良心の発表を強制することを禁止することをもその内容とし、またこの沈黙の自由は、さらに一定の思想の表白を強制されない自由を含むとするのが我国の通説である。

本件において井上教授が行つたことは、受験妨害や除名文書の送付などについて、自己に非違行為はなく、謝罪をすら必要はないと内心で信じている控訴人らに対し、前記のとおり、試験の実施について一定の権限を有している井上教授が、控訴人らの内心の状況に反してそれらの事項について謝罪の意思をわび状という形で表明することを要求し、わび状を提出した者には試験を実施するが、わび状を提出しない者には試験を実施しないという制裁を告知したのであるから、これが単なる謝罪要求ではなく、きわめて重大な不利益制裁を前提とした謝罪要求であり、法医学の試験を受験できなければ、卒業もできず、従つて医師にもなれない控訴人らに対して、いわば生殺与奪の権利を持つた者による謝罪の強要に他ならない。これが講学上良心の自由の内容とされている、沈黙の自由、一定の思想の表白を強制されない自由を侵害していることは多くを語るまでもないことである。

原判決は、「控訴人らが井上教授の要求を、良心の侵害を感じたならば、聞いても従わないということで容易に、その圧迫から逃れることができた」などと述べているが、暴論の極みというべきである。他の一六科目の試験が円満に実施されていつた中で、独り井上教授のみが法医学の試験を、右わび状の提出要求にからませ、そのため右に述べたとおり、卒業もできず、医師にもなれない学四の学生達は、遂に自己の内心に反して、次々とわび状を提出して、井上の要求に応ぜざるをえなかつた。わび状を提出して受験した者の一人荒井は、如何に、このわび状が、不快で精神的苦痛をもたらすものであるかを証言している。わび状の提出を拒否し続けたのは、ストライキに参加した学四クラス四八名中控訴人らごく少数の者に過ぎない。「容易に拒否し得た」などと到底言える状況でなかつたことは余りにも明白であろう。

原判決は、わび状を拒否したことによつて、受験できなくてもそれは、再試験の要件が備わらなかつたがためであつて、井上の謝罪要求を拒んだことに起因するものではないなどと述べている。しかし(万歩を譲つてこれが本試験でなく再試験であるとして)再試験の要件が備わつていなかつたといつても、現にわび状を提出した学生に対しては、再試験を実施している以上、控訴人らが受験できなかつたのはわび状を提出しなかつたからに外ならず、井上教授が、この試験の実施の有無を制裁的な条件として利用したことには何ら変わりがないのである。

4  差別的取扱について

原判決は、謝罪しない学生に対して試験を実施しないとして区別することは、道徳教育や法医学の基礎理念からみて、合理的差別である旨判示した。

しかし「受験妨害」や「中傷文書の送付」という事実が仮に認められるとしても、それらは法医学の教科教育と直接関係する事柄では決してない。受験妨害や中傷文書の送付をしたから、その者は法医学の履修が不十分であるなどとどうしていえるのであろうか。原判決は、井上教授や被控訴人の主張を鵜呑みにして、道徳教育や法医学の基礎理念(医道)等々で両者を関連づけようとしているが、そのような論法でいけば、法医学に限らず、あらゆる医学、あらゆる学問に関連づけられてしまう。そのような論法でいけば、例えば私行上非行があつたとき、そのような人間は道徳教育上問題があるし、医道をわきまえていないからという理屈で、法医学のみならず、あらゆる科目の試験の実施を拒否してもよいということになるであろう。しかし金沢大学医学部では、それまで本試験、再試験を通じて科目試験に関する内規でいう出席日数の要件以外の理由で試験の実施を拒否するようなことは全くなかつたのである。それは試験の実施について、各科目の教科教育と関連しない理由で、試験の実施を拒否してはならないという当然の条理が行われてきたからである。

現に「法医学」以外の他の一五科目の試験が、「受験妨害」や「中傷文書の送付」を問題とされることなく無条件で実施されたことも、井上教授による差別が、大学教官としての良識を越えた非合理なものであることを端的に示していると言わねばならない。さらに井上教授の本件試験実施拒否に対して学内から広汎な批判がまきおこり、無条件試験実施を求める多くの教官の署名が集まり、評議会等でも井上教授に試験実施を勧告し、学長もこれを要望するなどの一連の事実は、教育的判断からみても、井上教授のとつた措置が、大学教官としての健全な良識に反したものであつたからに他ならない。

従つて、この差別を合理的なものとするいかなる理由も存しないというべきである。

5  懲戒手続の無視について

大学教官による試験実施は、学生の学習権(教育をうける権利)の教育専門的な保障にかかわる学校の教務措置であつて、そこにおける教育的裁量権も、学校懲戒処分におけるそれとは全く異なり、あくまで教育専門的な成績評価の目的によつて授権されているものである。したがつて、試験の実施に当たつて個別教官が、本件の如く、懲戒的目的に出でて試験を拒否するようなことは、懲戒処分手続の脱法の違法があるとともに、教務上の裁量権の懲戒的濫用として違法である。

(1) 教育機関としての大学が行う措置のうち、教育専門的評価にもとづく学生の身分取扱い(例えば入学許可、卒業判定)及びそれに連なる教育的処遇(例えば試験実施、成績評価)は、教育法学上「教務措置」と呼ばれる。この教務措置は、学生の非違行為に対する制裁措置としての懲戒措置とは明らかに性質を異にしており、両措置の間における混同は、学生の学習権の保障に反することとして、厳に戒められなければならないとされている。すなわち、教務措置は、人間的能力の教育専門的な発達(つまり学力の向上)に関わる分野に対応するものであり、教務措置における教育的裁量権も、各大学における内規及び自治的運用に委ねられると共に、この分野について認められる担当教官の「教授の自由」に裏打ちされた教育専門的裁量に委ねられることとなる。

これに対して懲戒措置は、学力の発達以外の学生の学習権保障における人間的成長の面に対応すると共に、各学校の運営上の自治に関する教育的制裁措置であつて、その教育的裁量性は、教務措置におけるような教育専門的な成績評価上の裁量性とは別個・異質のものとなつてくる。さらに懲戒処分は、対象学生の学習権に関し強い権利制限的効果をもつものであるから、その教育的裁量権の行使には十分な公正手続の履践が要請される。そこでこの点に関する学校制度的規律として、懲戒処分は大学にあつては学部教授会の審議決定にもとづき、かつ関係者に事前聴聞の機会を保障すべきものであると解される。

以上の如く教務措置と懲戒措置は、その目的、認められる教育的裁量権の内容、必要とされる手続などの点で別個異質なものであつて、その間の混同は、教育的裁量権の限界を逸脱し、学習保障権に反する違法を生ぜしめるのである。

(2) 小・中・高等学校の教師は、その教育権限の一環として、相当程度の「生活指導」権を有し、その延長上で、事実上の懲戒を行う個人的権限をも与えられている。これに対し、大学教官が成人たる学生に対し生活指導権を有するかどうかは、現行の大学法制上一般的に自明ではない。たしかに学生のカンニングや就職推薦などに関し、一定範囲においては、個別教官の学生に対する正規の生活指導もありうるであろう。しかし居残り、作業命令のような事実上の懲戒権を個別教官が学生に対して有するかは疑わしい。学生が「学校の秩序を乱し、その他学生としての本分に反した」行為(学校教育法施行規則一三条三項四号)の故に、学校から懲戒をうけることは、現行の大学法制上一般的には、学長名でなされる懲戒処分によるべきところと予定されているものと解される。そして懲戒処分にあつては、前記のとおり、学部教授会が事前聴聞をへて審議決定すべきものと、その公正手続が要請され、個別教官の主観によつて学生の権利・法益が害されることのないように予定されているわけである。

そこで、他方大学の各教官には、その学問的「教授の自由」として、担当科目の試験に関する教務上の裁量権が認められていることは前記のとおりであるが、各教官がその教務的裁量権を本件の如く学生に対する懲戒の目的で行使した場合には、この教務上の裁量権の行使は次の二つの点で違法といわざるをえないこととなる。

その第一は、右の懲戒処分に関する教授会決定手続に対する脱法行為であるという手続法的違法性である。この点は、特定科目の受験拒否といつた個別教官の教務措置であつても、その結果は停学処分の場合と同様に卒業延期など学生の在学関係上の身分に多大の影響をもたらしうることにかんがみるとき、努めて重視しなければならない。

第二に、教官の担当試験に関する教務上の裁量権は、本来前述のとおり教育専門的な成績評価を目的とするものであるから、それを学生懲戒目的に用いることは、権限濫用(権限の目的外行使)にほかならず、その意味において実体法的にも裁量権の限界の逸脱の違法があるといわねばならない。

(3) 以上の点から考えた場合、本件において井上教授が、控訴人らに対して、わび状の提出を要求して、法医学の卒業試験の実施を拒否して、卒業を遷延させた行為は、明らかに教務上の裁量権を懲戒のために濫用したものであり、右に述べた二つの意味で違法であるといわねばならない。

(被控訴人の主張)

一  「本試験を受ける権利の侵害」の主張について

1  科目試験の実施は、当該科目担当教官が決定するものであつて、決して右科目を受講した学生が決定するものではなく、控訴人らが受験申請の取消願を提出したからといつて、試験を受ける権利が留保されるものではない。

すなわち、金沢大学医学部の科目試験に関する受験申請手続は、当該科目試験の実施責任者たる担当教官が、当該科目を履修したものと認める学生に対し、具体的日時・場所及び方法を指定して当該科目につき試験を実施する旨決定したのち、初めて学生から「科目試験に関する内規(以下「内規」という。)(<証拠略>)3」により、試験受験申請書を提出させるもので、右受験申請書の提出は、もともと試験を受ける学生数等を把握し、試験の管理運営が円滑かつ適正に行われるための事務的・技術的手続にほかならない。したがつて、受験申請の取消願も右に対応する効果しか持ちえないのは当然であつて、このような取消願を提出したからといつて、担当教官の試験実施決定に何ら影響を与えるものではなく、試験実施決定があるのに、「つごうにより」という事由によつて取消願(<証拠略>)を提出して試験期日に欠席すれば、本試験を受験する権利を放棄したものというほかはない。

右のように何ら正当な理由なく取消願を提出して受験しない場合であつても、本試験を受ける権利が留保されるとすれば、金沢大学医学部における科目試験の体系を全く無視することになるのである。

すなわち、同大学医学部における科目試験は、担当教官ごとに年一回行われる本試験(医学部規定(以下「規定」という)七条一項(<証拠略>))及び本試験期日における欠席事由が正当である旨当該学科担当教官、補導委員によつて認定された場合において、一年一回行われる追試験(内規5、<証拠略>)がある。そして、右本試験の期日に正当な理由なくして欠席した者に対しては、以後同一学生中には試験の機会は与えられないから(内規6、<証拠略>)、このような者が当該科目の本試験を受けるためには、再び新学年において当該科目を履修した後でなければならないことになる。ただし、右に規定する例外として、「特別の事情」があるときには、教授会は内規によつて追試験を受けることができない場合でも、更に試験(再試験)を許可することがある(規程七条四項、<証拠略>)。

ところで、前述したように、学生が大学側に対して受験申請の取消願を提出して、当該試験期日に欠席した場合、これにつき正当な理由の有無を問うことなく本試験を受ける権利を失わないとする立論は、前記のとおり、試験期日の欠席に関し、正当な理由を具備しているか否かによつて試験の種類を区別している金沢大学医学部の科目試験の体系を全く無視する議論というほかはない。

2  もし、学生の受験申請の撤回、そして学生の試験期日における欠席により、一旦決定された試験実施が無に帰するというのであれば、試験を実施するか否かは、被教育者たる学生の恣意に左右されることになり、かくては大学教育そのもののあり方に反し、大学の自己否定論につながるものである。

控訴人らのこの点に関する主張に対し、次の反論を付加する。

(1) 控訴人らは、「当時昭和四四年一二月二三日に試験が実施されるということは何人の念頭にも存在しなかつた。」とし、「この点は全ての関係者が前記取消願の効果を認めてその撤回があつたことを前提にしていたからに他ならないのである。この点を全く無視して「欠席」という事実認定をした原判決はきわめて不当である」旨主張するが、右当日試験が実施されなかつたのは、受験資格のある学生全員が受験申請の取消願を提出し試験期日に出頭しない場合には、事実上試験の実施が不可能であるというだけのことであり、右主張事実をもつて、右取消願に本試験の受験申請権を留保する効果があるという根拠となしえないことは明らかである。控訴人らは、右取消し願に井上教授の承認印が押捺されていた旨主張するが、右の印が、単に申請撤回の意思を了知したという趣旨で押捺されたにすぎないことは、原判決認定のとおりである。

また、学生のストライキ権を認めない大学側関係者が、スト突入を理由とすることが明らかな受験申請の撤回を正当なものと承認する余地のないことはいうまでもないところであつて、右押印によつて控訴人らの受験ボイコツトが正当視される理由はないとした原判決の判断は正当である。

(2) また、控訴人らは、右本試験期日後における大学側の試験に関する説明やその取扱いを、その主張の根拠としているが、当時の学四クラスの学生達に対して実施されたのは再試験であるから、大学側のそれらの試験に関する取扱い等を、本試験を受ける権利についての控訴人らの主張の根拠とすることはできないというべきである。

二  「再試験を実施しない違法」の主張について

1  受験妨害があるとの前提について

控訴人らを含む受験反対派学生達は、受験派学生集合の連絡を受けて試験場へ向かうまでの一連の行動の間、ヘルメツト等を着用した革マル派と同一歩調をとつていたのであるが、法医学教授室前に到着するや、控訴人ら(藤岡を除く)を含む十数人が同室に侵入し、井上教授から退去を求められても機動隊導入を知るまで応じようとしなかつた。なお、右教授室に侵入したのは、藤岡を除く控訴人ら全員のほか革マル派委員長山田、同執行委員長山本を含む十数人である。その後は同教授室前に午後六時半ごろまで座り込んで、室内で試験が実施されていることを知りながら説得活動と称して室内に声をかけたり話し合いを強要するなどの妨害活動を長時間にわたり行い、更に控訴人らの内数名は、大塚教授の引率の下に帰路につこうとした受験派学生の行動を阻止する等の行動もみられた。

革マル派と受験反対派学生らに追われて法医学教室に駆け込んだ受験派学生達は、不安と喧騒により当初パニツクのような状態となつたが、その後も受験反対派学生が廊下に座り込んでいたため、筆記試験はできず、口頭試験への切り換えがなされたのである。

右の事実関係に照らせば、控訴人らの行動は単なる説得活動を超えた執拗な受験妨害活動というべきである。

2  文書送付について

控訴人らが関連病院あて送付した文書の内容が中傷・誹謗文書であることは、その文書(<証拠略>)の記載内容自体に照らして明らかである。しかも、右文書は、北陸三県を主体とし、それ以外の地域にもわたる受験派学生の卒後研修及び就職先である関連病院に広く配布されたのである。

除名決議は、学四クラス会に出席した大多数が賛成してなされたものであり、たまたま控訴人らのみが反対であつたとは考えられない。

仮に、除名決議に賛成したと供述している上島以外の控訴人中に反対の者がいたとしても、クラス会の意思決定としては、除名決議をする旨の意思決定をし、それに基づいて誹謗文書の送付を行つたのであり、右クラス会の構成員としての控訴人らが、他に右クラス会の決定を非とする特段の所為に及んだ事情の認められない本件にあつては、これにつき控訴人らに責任があるのは当然である(控訴人らは、ストライキの中で受験していつた学友とも、今後共通の問題を話し合つていかねばならないから反対したというのであるが、そうであつたとすれば右決議や文書の送付に対する反対活動や何らかの事後的措置をすべきであるのに、そのような行為がなされた形跡は全くないのである。)。

控訴人らは、学生ストについては、反対であつても多数決で決議されたものであるから従うべきであると述べながら、これに反して受験した学友らの除名決議については、自分は反対して関与していないから責任がないというが、身勝手な責任のがれというほかはない。

3  良心の自由に対する侵害について

本件は、控訴人らが、自ら受験派学生に対し、受験妨害をなし、同人らを卑劣漢、社会集団の場における不適格者エゴイスト等と決めつけた文書を関連病院に送付し、受験派学生の思想の自由を侵害し、その名誉、信用をいたく傷つけるとともに、同人らの研修、就職の妨害を行つたことに対し、井上教授が真の教育者の立場から、控訴人らに対し、これが被害者である受験派学生に謝罪するよう求めたものである。控訴人らは、他人の思想の自由を侵害し、その名誉、信用をいたく傷つけておきながら、これが謝罪を求められるや良心の自由の侵害と主張し、控訴人らの所為により計り知れない精神的苦痛を受けた受験派学生の回復措置について一顧だにしないものである。

仮に、控訴人らの内除名決議に賛成した上島らを除く者が、真に、ストライキの中で受験していつた学友とも今後共通の問題を話し合つていかなければならないからという理由で決議に反対したというのであれば、この「わび状」が井上教授に対するものではなく、受験派学生に対する前記文書による非違行為についての回復措置として受験派学生及び文書送付先に対して送付すべきものであつたことをあわせ考えれば、それほどその意思に反するものではないともいえるのである。除名決議に賛成したことの明らかな上島はもちろん、控訴人らのうちに反対した者がいたとしても、現に右決議がなされ誹謗文書の送付がなされた以上、右の反対理由の趣旨にたつて何らかの措置をとるべきであつたにもかかわらず、手をこまねいて放置しておきながら、井上教授からそれを要求された場合には「謝罪の必要はない、内心の意思に反する」とかたくなにこれを拒み続けることは自己の主義主張ばかりを強調し他を省みないものというほかはない。

そうであるとすれば、井上教授が控訴人ら自身その非を認める行為につき、その被害者である受験派学生に対する謝罪等を求め、これを行つた場合に再試験の要件たる特別の事情が備わるものとして再試験を実施するとしたことは、良心の自由に対する侵害が起こりうるような場合ではないというべきである。

控訴人らは同人らがその名誉・信用を傷つけその研修等の妨害を行つた受験派学生に対し、井上教授の右教育措置にしたがい回復措置をとれば、直ちに再試験を受験し得たのであつて、自ら容易にその不利益を防ぎ得たのである。したがつて、原告らが昭和四六年九月まで受験をなし得なかつたことにより不利益を受けたとしても、それは、何ら反省することなく無条件即時試験実施という自己の要求に固執し続けた控訴人らの自損行為というべきである。

4  差別的取扱について

井上教授の控訴人らに対する謝罪等の要求が、まさに控訴人らの教育の衝にあたる者として、同教授が、その高度に専門的技術的見地から再試験の許可を与えるうえで、必要不可欠のものとしてとくに前置した教育措置そのものであつた。

右教育的措置は、他の教官と異なり、前記のような積極的な受験妨害行為に直面した井上教授が、真の教育者として、学生のためを思いまた大学のためを思い、将来の社会における指導者として社会から尊敬される医師の育成に思いを致して純粋な動機からとつた措置であつた。

井上教授のとつた教育的措置が、高度に専門的な技術的見地から、再試験の許可を与えるうえで必要不可欠のものとして前置した教育措置そのものであり、再試験実施に当たり科目担当教官に権限が一任されている教育的裁量の範囲を超えた不当な措置でないことが明らかであるから、受験反対派学生が行つた事実を隠蔽した各種の学内キヤンペーン(<証拠略>)等により事実を正しく認識されないでなされた学内批判や勧告、要望があつたとしても、これにより井上教授のとつた措置が大学教官としての健全な良識に反した論拠となしえないことは明白である。

5  懲戒手続の無視について

控訴人らは学校教育法施行規則一三条二項の懲戒処分実施権者に関する規定を論拠として掲げ、あたかも、井上教授のとつた措置が、懲戒処分である如く主張するが、同教授のとつた措置は以下に述べる大学教育の原点に立つて行われた教育措置であり、控訴人らの主張は、このような大学教育の特質に思いを致さない議論といわざるをえない。

すなわち、学校教育法五二条が明文をもつて規定しているように、大学は、学術の中心として広く知識を授けるとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させることを目的とするものである。もし大学において、学生の非違行為に対し、懲戒手続をとるか放置するかのいずれかの選択しか許されないとするならば、また、もし、教師が受講学生の要求する限りいつでも無条件で試験を実施し知的能力のみで単位を評価し、これを社会に送り出すよう努めなければならないとするならば、学校教育法五二条の目的は達し得ないことは明らかである。

教育とは、単なる知識の授受関係ではなく、教師の学生に対するまさに全人格的な対応関係である。大学教育にあつては、広く知識を授受するとともに、深く専門の学芸を教授研究し、知的、道徳的及び応用的能力を展開させなければならない。したがつて大学及び大学教師は常に学生のあらゆる行動に対して全人格的に教育的対応をすることが法律上要求されているのである。

しかして、井上教授の控訴人らに対する謝罪等の要求は、まさに控訴人らの教育にあたる者としてとつた教育措置そのものなのである。

(証拠関係) <略>

理由

当裁判所も、原審と同様、控訴人らの本訴請求は、いずれも理由がないからこれを棄却すべきであると判断する。その理由は、次のとおり付加、訂正するほか、原判決理由説示と同一であるからこれを引用する。

一  原判決書三〇枚目裏六行目の「なく、」を「はない。」と改め、同行の以下一五字を削除し、七行目との間に次のとおり加入し、同八行目中「(三)」とあるのを「(六)」と改める。

「<証拠略>によれば、右の試験申請取消願書の事由は『つごうにより』とされていたことが認められるが、前記の争いのない事実(原判決理由引用)に照せば、取消の事実がストライキ突入に伴う受験ボイコツトであつたことは当時客観的に明白であつたと認められるから、もしこれを承認するようなことをすれば、ストライキを正当と認める背理を犯すに等しく、到底考えられないことであつた。このことは、試験申請取消願が、学生が正当な事由があるとして願い出る場合に使用させるべく大学側が常備していた用紙を用いたからといつて、何ら消長をきたすものではない。

(三) <証拠略>によれば、昭和四四年一二月二三日実施の法医学の試験の受験を申請していた学生の全員が、同年同月一一日付でその申請を取消す旨の願書を医学部長に提出していたことが認められるので、右試験期日に大学側が試験場の準備をしていなかつたとしても、受験学生がいないため事実上試験の準備をする必要がなかつた結果にすぎず、それをもつて、大学側が右取消願の効果を認めて撤回があつたことを承認したものと認めることはできない。

(四) 本試験が実施されるべき日であつた昭和四四年一二月二三日の後に、大学側が学生に対し次年度の再受講について何らの説明や示唆をしなかつたとしても、それは再試験を予定していたまでのことであり、それをもつて、大学側が右期日後の昭和四四年中にさらに本試験を実施することを前提にしていたものと認めることはできない。

(五) <証拠略>によれば、当時金沢大学医学部において、個々の学生の申請に応じて、その希望をできるだけ尊重して何回も科目試験を実施した教官があつたことが認められるが、それは当該教官がその裁量においてそのように運用したまでのことであり、右事実をもつて、成文の規程及び内規を改廃する慣習があつたと認めることはできない。」

二  原判決書三四枚目裏一〇行目中「は採用できない。」とあるのを「及び<証拠略>は採用できず、その他に右認定を動かすに足りる証拠はない。」と改める。

三  原判決書三五枚目表一一行目の「尋問の結果」とある次に「及び<証拠略>」を挿入し、一二行目との間に次のとおり加入する。

「学生自治会の決議に対しては、教官は原則として容喙すべきでないが、<証拠略>によれば、本件除名決議は、大学が実施した試験を受験したことを事由に除名したものであることが認められるから、明らかに違法な決議内容であり、この問題を教官が教育措置として取り上げることは正当であり、このような明白な事柄について、双方の学生のいい分を聞いたり、話し合いによる解決の場を作つたりまでする必要はない。また、中傷、誹謗文書が被害者に与えた現実の具体的影響の大小は、これを教育上の問題として取り上げた教官の措置の違法性の有無と直接的に関連するものではない。」

四  原判決書三五枚目裏三行目から同三六枚目表六行目までを次のとおり改める。

「<証拠略>によれば、井上教授が控訴人らに要求した謝罪文は、単に事態の真相を告白し陳謝の意を表明するに止まる程度のものであつて、これを間接的に強制したからといつて、憲法一九条の保障する良心の自由を侵害するものではないと解するのが相当である(最高裁判所昭和三一年七月四日大法廷判決・民集一〇巻七号七八五頁参照)。そして、井上教授がなした右謝罪文要求の措置は、控訴人らが受験派学生に対しその名誉、信用を違法に侵害したことによつて被らせた被害の回復措置として、教育上の見地から執られたものであつて、相当な措置というべく、何ら違法なものではない。したがつて、控訴人らの右主張は理由がない。」

五  原判決書三八枚目表末行と同裏初行との間に、「以上の認定、判断は、当審における控訴人の主張、立証を勘案しても動かすに足りない。」と加入する。

六  原判決書四〇枚目表一〇行目と一一行目との間に次のとおり加入する。

「要するに、井上教授が執つた措置は、スト学生に対する懲戒的目的に出でた試験拒否ではなく、控訴人らが受験妨害と中傷、誹謗文書の送付をなした結果、受験学生らに被らせた被害の回復措置としての謝罪文の作成、発送という、当然になすべきであり、かつ、極めて容易になすことができる行為をなさないが故に再試験の実施を拒否したものである。従つてその前提を異にする<証拠略>(鑑定書)は本件に適切でなく採用のかぎりでない。

以上の次第で、井上教授の執つた措置が教務上の裁量権の懲戒的濫用であつたとは到底いうことができない。」

七  原判決書四一枚目表七行目の「できない。」とある次に、「右補講が学生側からの要望により企画されたもので、法医学の極く狭い分野に関するものであつたとしても、何川教授が自己の裁量権により特別の事情が具備されたと判断したものであるから、異とするに足りない。」と加入し、同四一枚目裏五行目中「強いて」とあるのを削除する。

よつて、控訴人らの本訴請求はいずれも理由がないから棄却すべきであり、これと同旨の原判決は相当であつて、本件控訴はいずれも理由がないからこれを棄却することとし、控訴費用の負担につき民訴法九五条、八九条、九三条を適用して、主文のとおり判決する。

(裁判官 黒木美朝 川端浩 山口久夫)

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